地鎮祭、その他の外祭の
お申し込みはこちらから!

このページでは地鎮祭など、八津御嶽神社で承っている各種外祭のお申し込みの詳細をご紹介しています。具体的なお申し込みはもちろん、それぞれのおまつりごとに関するお問い合わせ・ご相談も承っておりますので、ぜひ気軽にご利用の上、ご連絡いただければと思います。

各種外祭のお申し込み方法

  • 【お電話でのお申し込み】

    おまつりごとの種類、ご希望日程、施主様(現地)のご住所、担当者様(工務店様など)のご連絡先などを確認の上、当神社・社務所(03-3372-4252)宛、お電話ください。尚、日程につきましては当神社の予定も考慮の上、お電話を承った際に改めてご相談させていただく場合がございます。予めご了承ください。

  • 【FAXによるお申し込み】

    パンフレット本紙をダウンロード・印刷してご利用ください。送付先は八津御嶽神社・社務所(03-3374-1806)となります。尚、ファックスにてお申し込みいただいた内容は当神社・社務所にて確認後、折り返しご連絡の上、日程などの詳細をご相談させていただく場合がございます。予めご了承ください。

お申し込み時のご注意

  • ※お申し込みは、おまつりごとを希望される日程の7日前位までにお願い申し上げます。
  • ※基本的には東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県を対応エリアとさせていただきますが、一部エリア外とさせていただく地域がございます。また、日程によってはお受けできない場合もございます。予めご了承ください。

おまつりごとの日取りに関する、八津御嶽神社の姿勢

地鎮祭、上棟祭などはもちろん、結婚式や新規事業の立ち上げといったお目出度いおまつりごとやイベントは大安に行うべき・・・と考える方が多いと思います。しかし、右記【詳説】でもご紹介のとおり、皆様もよくご存知の六曜(もしくは六曜星・・・「先勝」、「友引」、「先負」、「仏滅」、「大安」、「赤口」)は単なる迷信と言わざるを得ません。八津御嶽神社ではこの点も踏まえ、あえてこの「六曜」にこだわらず、いつでも心をこめた各種の祭礼や外祭を行うことを基本としています。もちろん皆様の中には「それでも大安などの六曜にこだわりたい」という方も多いと思いますが、事前にこうした当神社の姿勢をご理解いただいた上で、各種おまつりごとをお申し込みいただきたくお願い申し上げます。

「六曜」は気にされないほうが・・・

「大安は吉の日で、仏滅は凶の日・・・。友引には決して葬儀を行ってはいけない」など、多くの皆様は信仰のあるなしにかかわらず、社会の習慣、または常識として六曜の考え方を受け入れていると思いますが・・・。そもそもこの「六曜」とはなんなのか、ご存知ですか?

「六曜」は中国で生まれたとされていますが、実はいつの時代から暦として確立されたか?については全く不明です。時には(孔明六曜星)とも呼ばれ、諸葛亮が発案し、これを用いて軍略を立てていたといった俗説もありますが。しかしいわゆる三国時代から六曜があったという説も疑わしい、というのが定説となっています。また一説には唐の李淳風の発案ともいわれますが、これの真偽も定かではありません。こうした「六曜」が中国から日本に伝来したのは14世紀の鎌倉時代末期から室町時代にかけてとされており、幕末頃より民間の暦に記載されはじめていたようです。

明治時代に入ると、吉凶付きの暦注は迷信であると政府に禁止されたにもかかわらず、「六曜」だけは迷信ではないと記載され続けました。このことがかえって人気に拍車をかけることとなり、現在に至っています。ただ「六曜」に定められている固有の吉凶・運勢は、よく見ると勝負事に関する内容が多く、「ゲン(元または験)を担ぐ」ことにポイントがおかれていることから、元々は賭場の遊び人や勝負師などの間で流行したものではないか?とも言われています。

さらに言えば、皆様の中には「六曜」は神道ではなく、仏教上のものとお考えの方もいるかもしれませんが、たとえば仏教の世界でもお釈迦様はいわゆる占いを禁じていますし、浄土真宗(親鸞)などは「日の吉凶を選ぶことはよくない」と説いています。

こうしたことからもお分かりのように、皆様よくご存知の「六曜」は古くから伝わる単なる迷信と言わざるを得ないのです。こうした理由から、八津御嶽神社では「六曜」の考え方を取り入れていませんが、皆様はいかがでしょう?信じるか否かは別として、おまつりごとの日取りを考えられる際、多少なりとも参考にしていただければ幸いです。

「三輪亡」の真偽について

「六曜」同様、常識とされているものに「三輪亡」があります。「この日に建物建築をすると、後日火災に見舞われ、近隣3軒まで滅ぼすといって忌み嫌われる日」のことですが、これについても解説を加えておきます。

そもそも、いつ頃から三隣亡の慣習が始まったのか?といえば、実ははっきりとしておらず、判っている範囲では江戸時代に入ってから、とされています。なぜなら、三隣亡については江戸時代よりも前の古い暦注解説書には書かれておらず、江戸時代になってから見受けられるようになったからです。

さらに江戸時代の暦注釈書には「三輪宝」とあり、「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていました。つまり現在とは正反対の吉日だったことになります。これがある時、当時の暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え、「屋立てあし(悪し)」「蔵立てあし(悪し)」と伝わってしまったのではないか?という説があります。そして後年、「三輪宝」が凶日では都合が悪い!ということで同音の「三隣亡」に書き改められたのではないかと言われています。というわけで、こちらも根拠が定かでない古い迷信の類と言えるでしょう。ご参考までに!